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旅行記

宮古島再訪記

一床ひろしさん  東京都

2014年
9月27日(土)


私は昼過ぎに羽田を発って那覇に行き、30分間初めての沖縄滞在をし、弁当を買い、乗り換えの飛行機で宮古島に向かった。前回は行きも帰りも直行便であったが、今回は羽田発の直行便は朝早すぎて利用しなかった。帰路は直行便にしたがこれも羽田着が22時25分と遅い。宮古への便は以前利用したときより不便になっている。

以前というのは、1992年のゴールデンウイーク。あの時は、行きの直行便はそれほど早い時刻でもなく、帰りもそんなに遅くはなかった。また少なくとも行きには機内食もあった。(前回の滞在記: http://p.booklog.jp/book/75720/read)

さて、前に来た時には、飛行機は伊良部島上空を通って宮古空港に接近したが、今回は、白波を立てて八重干瀬(やえびし)かと思える浅瀬を見せてくれ、また前にはまだ建設中だった宮古島と来間島を結ぶ長い橋を見せてくれながら着陸体制に入った。

海が美しいと橋も美しい。いやこの橋は橋だけで見ても美しい。それは宮古島を発してまっすぐに延び途中で一度隆起して来間島に入る。

この隆起はマストの高い船を通すためにそうしたのだろうが美的効果を奏している。いずれにしてもこの隆起と橋の長さ、そして恐らく四六時中強い風を受けるだろうことから、わたしはこの橋を自転車で乗り切るのは容易ではなかろうという危惧を抱いた。

もろに逆風だったら渡れないだろう。そんなわけで、私は、すでに来間島に自転車で渡ることにおじけを抱いた。

宮古空港からすぐにタクシーでイーオンに行った。持参する予定だった折り畳み式自転車が数日前からチェインが外れやすくなっており、前日の朝、テストランをしてみた、するとチェインは外れるのではなく、噛んでまったく流動しなくなった。

調べているとチェインの一か所でリンクが破損していることを発見し、廃車することにした。それで今まで模索していた宮古島内での移動方法の選択肢を再び考察した。

ひとつは現地でレンタサイクルする。これは数日間連続で返還なしで借りられるということがインターネットでわかっていたので、最有力選択肢であった。

自転車を輪行(折り畳んで袋に入れ電車や飛行機に乗せて移動)する苦労を考えると少々高いレンタル料も報われる。次の選択肢は、サイクリングはよしにして、定期便のバスで移動すること。これはバスに乗っているあいだはパノラマ観光もできるので楽だし、気に入ったところで臨機応変に下車できる利点がある。

しかしバス停が観光スポットの近くにはない場合が普通で(地元の人の通勤通学のためのものだから当たり前)、しかも便数が多くなく、バス停までの距離感を誤ると乗り遅れ同じ地域に数時間足止めを食らう。そして一番の問題はバスを降りてからはすべての荷物を自分の肩で背負わなくてはならないことだ。

自転車ならカゴに分配することができる。次の選択肢は、目的地を2,3にしぼりタクシーで移動する。これは人数が3人もいればバスよりも経済的な場合もあり、時間的にも自由で正確に目的地に行けるのですばらしいが、私の性に合っていない。

そういうことで最後まで、自転車を家から持っていくか、現地でレンタサイクルにするかで思案を重ねていたが、今ある自転車を廃車にすることになって、にわかに事情が変わった。新しい自転車を一台買わなければならなくなったのだ。そして当然の帰結として宮古島で自転車を買うという新たな選択肢が最有力となり、決定した。

そういうわけで、私は宮古空港からイーオンにタクシーで直行した。インターネットで調べ、サイクルショップがいくつもあることを知っていたが、イーオンには車種が多く自分の求めているものを見つけやすいとだろうと思った。

私は今回の旅のためにあらかじめ鉄製の取り付け簡単な折り畳み式前カゴと輪行袋を購入しており、これらが利用できる車種であることが重要であった。しかしイーオンに行って驚いたことに折り畳み式自転車は店頭にあった4台だけで、それも3台にはカゴがついていた。

どれも予定したものより大型である。持参した輪行袋に収まるか不安であった。そこでカゴの付いていないものを買う方針で店員に、自分の輪行袋に収まるものかどうかテストさせてくれるよう頼むと許可が出たので、折り畳んで袋に入れると何とか入ったし、持参した前カゴもセットできたので、購入。(この自転車にはシマノの6段ギアがついていたので、登り道の少なくない島々でのサイクリングにずいぶん重宝した。

ナイトランはしない予定だったので別売りのライトは買わなかったがこれは誤りだった。)ヘルメットは、持参したプラスチック製のヤンキースの紺色のヘルメットをかむった。前回は赤いシンシナティ・レッヅのヘルメットだった。設計がよく強い風が吹いても飛ばされない。

こうして私の宮古島での第2回ツアーが始まった。前回同様、まずマイハマビーチを目指した。日没までにマイハマに着いて、テントサイトを見つけることが計画だった。

イーオンの店員は結構距離がありますよ、と心配そうだったが、日没よりもずいぶん前に着いた。途中道を誤り、与那覇湾に出た。でかい馬の像が立っていた。そこで今回の旅行の最初のシャッターを切った。引き返し、マイハマには5時半頃到着。が前来た時と様子が変わっていた。

22年も経過していたので、様子が同じであるはずもない。シャワー施設を見つけたので、泳いでみようかとも思ったが、それより先にテントサイトを見つけてテントを設営せねばならない。そこで記憶をたどりながら、前回テントを張った東屋を探したが、ビーチの裏にあるくねくねした遊歩道を行っているうちに‏車道に出、しばらくして広い道に出た。右を見るとそれは来間大橋に通じている。思わずそちらにハンドルを曲げ、進む。

橋に入るともう止まらない。風も味方してくれているようだった。

思えば、22年前マイハマビーチで夕日が沈むのを泡盛を飲みながら仲間二人と眺めたとき、わたしはひとりビーチをさまよい歩き、やがて建設中の来間大橋に至り、魅せられるように橋に入り、薄暗いが手すりのあった作業用仮設通路を行けるところまで進んでいった。

なぜそんなことをしたのか思い出せない。そして22年後、私はまたこの橋を行けるところまで行こうとしている。少なくともこれは予定していなかったことだ。

風の向くままというか。むしろ引き返そうとすると風は私を押しとどめようとしたことだろう。シマノの6段ギアのおかげで橋の隆起も難なく乗り越えた。こうして私は一泊目を来間島にお世話になることとなった。

21年前には完成したこの橋は、来間島をそれほど非離島化していない。農業的には大きな恩恵を受けているようだが、その他の点では島は過疎のままだ。長間浜ビーチのある島の裏側は水道設備が整えられていない。だからシャワー設備はなく、水泳客を呼ぶ意欲が感じられない。

ここはサンセットビーチであって夕陽を楽しむところ、と謳っても、その他の時間帯に来る人のほうが多いだろう。

しかしサトウキビ畑には、回転式散水装置があるので、農業用には水道設備が整えられているようだった。ここではエネルギーの自給自足を島のチャレンジ課題として取り組んでいる。

そのため太陽発電や風力発電が活躍しているようであるが、ホテルなどもなく、むしろ電力自給自足の達成のために、電力を大量に消費するような施設の建設を極力抑えているのではなかろうかとも思われる。

この島の観光的様子については、多くの訪問者が滞在記や写真、あるいは動画をインターネットに載せているので、私は省略する。

ひとこと言えるのは来間島の人たちは、良いものをいくつも持っているが、それらを外来者によって低俗化されるのを嫌って、わざと宣伝・鼓舞しないようにしているようである。

宮古島で見たいくつかの地図から航路さえ消えたあの大神島のように孤高なる離島精神を守ろうとしている。

そういうことで、来間島には観光地としての受け入れ設備はめぼしいものがない。

前回来た時には船で渡り、長間浜ビーチで泳いですぐに宮古島に戻った。そこで前回も行ったビーチに行ってみた。観光客らしき人たちが泳いでいたり、沈みゆく夕陽を眺めている。私は日没までにテントサイトを見つけねばならないので、すぐに引き返した。

来間大橋を渡っているときに目を付けた展望台が見えてきた。これは絵本に出てくる竜宮城をモデルにしている。ほかに良いところも見つからなかったので、そこをテントサイトにしようと急いだ。そこには島の唯一の小学校、中学校があった。そして統合反対という貼り紙があった。

これらの学校を廃校にして、島の生徒をみな宮古島の学校に通わせようとすることに反対しているのだろう。近くに小さなレストランがあって、何台もの車が駐車していた。

私は、那覇で買った幕の内弁当を宮古島行きの飛行機内でかなり遅い昼食として食し、これのせいかまだ空腹でなかった。しかも汗をかなりかいたので、水分補給のために、それまでにコーラとカルピスソーダのロング缶を交互に自動販売機で買って飲んでいた。

コーラは普段はあまり飲まないが、飲むとしてもいつもカロリーゼロのものにしていた。しかし今はカロリーも補給する必要があり通常のものを選んだ。それでかえってカロリー過多になったのか、それとも久しぶりのサイクリングでの疲労によって、胃の運動を余儀なくする固形食品を摂ることへの体の拒否反応のせいか、食欲がわいてこない。

そこで、コーラとカルピスソーダのロング缶を一本ずつ買って、テントに入れ、寝ていて空腹になったらこれを飲むことにした。

ちなみに、これは宮古島諸島にいればどこでもそうなのであるが、自動販売機には必ずと言っていいほど小さなヤモリがすんでいる。ここで最初にこれを見た時にはびっくりした。

日没になったが、寝るには早すぎる時間だ。しばらくテントの中で横になって休んでいると疲れのせいか眠りに落ちた。しかし夜更けになってもアベックや観光客が展望台にやってきて、その声で目が覚める。

テントから出て展望台に登って夜景を見た。海の向こうはマイハマビーチだ。東急のホテルが赤々として不夜城を構えている。明るい時にここに立つと、遠くに池間大橋も見えた。海にはヨットも出ていて、明かりが移動している。

ここで私はICレコーダーを用いて歌唱の練習をする。今回の旅では楽器を携帯した。サイクリングツアーに携帯する楽器選択のための条件は、まず軽量であること、自転車の振動により故障が起きるようなメカニカルなものでないこと、荒旅で万一破損しても諦めきれるものであること、が同時に気に入っているものであることだ。今回はまた10月12日に参加を予定している、江戸川区民まつりにて演奏する曲々に使う楽器であるということも条件だ。これらを満足するベストの回答は自分の声帯である。

しかしこれは楽器ではない。そうして選んだのは細めのケーナだ。これを演奏することと、歌うことが、今回の島旅においてかなりの時間を占めた。またこのケーナを用いて「コンドヨメバヤ」というボリビアの曲について、美しい裏歌を作ることができた。島々からインスピレションをもらったと感謝している。

昼間は遠くに見えた宮古島も、夜のとばりの中で、光のモニュメントとして見るとき、あまり遠くないところにあるように見えてくる。実際、ヨットなどからは、アンプのボリュームを上げて演奏をしているのだろう、その響きがかすかに聞こえてくる。

それでヨットのマストの2点にある赤と青の光がこちらにゆっくり近づいてくると、私の歌声も彼らに聞こえたのではなかろうかという気がしてくる。それは何度か照明をこちらに投げかけることがあったからでもある。私はノルマとしていた6曲を2時間くらいかかってやっと納得できるくらいに歌えるようになり、再びテントに潜った。

テントの中で沖縄のFM放送を聞いた。標準語と島言葉を交互に話してくれる場合が多い。島言葉は音として聞くと韓国語のイントネイションに近いことに気づいた。

沖縄の人々は島言葉を日常化しようと努力しているようだ。今回、伊良部島で会った少年たちにしても、私の理解できない単語を使う。22年前に来たときに会った女子高校生たちは、すっかり標準語を使って、違和感がなかったが、今の沖縄の人たちは、島言葉を生活に取り戻そうとしている。

夢をほとんど見なかったようだ。

(つづきは下記のサイトをご覧ください。)
http://p.booklog.jp/book/91124/read