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旅行記
4月29日   長光一寛作

目が覚めてみると腹が刺すように痛む。

食あたりのようだ。トイレットペーパーをザックから取り出して、それを持ってテントから出た。すでに明るくなっていたが、博士も助手もまだ寝ているようだった。

この地に来て初めて一滴も雨の降らない夜が明けた。ぼくは水辺で用を済ませると、昨夜の宴の場に行ってみた。犬が「きれいなビーチ」の方にそそくさと歩いて行っている。見ると、そこに残したままにしておいたそう麺が袋からはみ出て湿気で柔らかくなって曲がっていた。

ビニール袋を見るとその中に入れておいた朝食用のパンが見あたらなかった。空になった泡盛の瓶が転がっている。先ほどの犬がここで早めの朝食を済ませたにちがいなかった。ぼくはテントに引き返し、横になった。

それから数回テントから出て排便したがいっこうにおさまりそうでなかった。ときに唸されるほどの痛みが襲ってきたので赤痢に罹ったかなと不安になった。

腹痛は周期的に襲ってきた。3・4回目毎に便意をもよおした。テントの中で横になっていると、朝の太陽光線がテント越しに眩しい。

ぼくはアイマスクをして目を刺激から守った。しかし、テント内は温室のように蒸してきた。身体中から汗が滲み出てきた。そして、腹がひとしきり騒ぎ、またぼくはテントから出る。

このような事を繰り返しているうちに、体力を消耗し、脱水状態になってきて、少し歩くことでさえつらくなってきた。 やがて、博士と助手の声が聞こえてきた。朝食用のパンが紛失し、出しっぱなしにしておいたそう麺も駄目になったと言う。

ぼくはテントから顔を出して、パンは野犬が食べたのだろう、と言った。それだけでくたびれて、また横になる。

その朝、米と生卵と調味料に毛が生えたようなおかずしか残っていなかった。博士らはぼくのテントのすぐそばの防波堤の下の日陰の中で朝食のための作業を始めていた。

ぼくはテントから出て、腹の調子の悪いことを報告し、それでも米を研ぐことと、米の入ったコッヘルを火に架けることまでして、再びテントに戻って横になった。とてつもない重労働をしたあとのようにへとへとになっていた。

食欲は全く無かったが、水が欲しかった。しかし、体力と気力を回復するためには、とにかく固形食料を胃に送り込まなければならなかった。

きょうはしかしこのまま動けないかもしれないと思った。ここで腹痛がおさまるまで横になって待つしかないかもしれない。

赤痢だったら病院に行かねばなるまい。心細い時間が過ぎてゆく。しかし幸いなことに腹痛がおさまる兆候がみえてきた。

やがて、ご飯が炊けたというので、テントから出て防波堤の影に入って生卵と醤油をご飯にかけて食べた。湯も飲んだ。三人は質素な朝食を済ませた。

そこの日陰が次第に面積を縮めてきて居心地が悪くなってきたので、ぼくは再びテントの中で横になった。ご飯を食べたせいか元気も回復してきていた。

自分でも不思議なくらい調子が戻ってきたので、再び外に出てそのことを報告し、ついでに泳ぐつもりになってきたとも言った。この豹変ぶりには自分でも驚いた。この浜にはきっとたくさんの熱帯魚がいるにちがいないという確信があった。

それにせっかくこんなすばらしい海辺を前にして、一泳ぎもしないで去るのではあとあと悔いが残るに違いなかった。

着替えて水中眼鏡をかけるとぼくは海中に身を投じた。どこまでいっても足がとどくほどの浅さだ。遠浅というよりはここは海全体が浅いのだ。6〜70メートル沖に行って初めて背が届かなくなるくらいだった。

熱帯魚を見つけるための必須要件は岩である。熱帯魚は穴のあいた岩に巣くうので、これがない所では見つからない。

そこでぼくは岩場を探した。底が黒みがかっているところが岩場だ。

そちらに泳いでゆくと、気持ち悪い黒いナマコがいくつも岩にへばりついている。よくこんなものを自分はおいしいと思って食べていたものだ。

やがて、酒場の入口で客の呼び込みをしているきれいに着飾ったホステスを思わせるような長く垂れるヒレを持ち派手な色彩をした熱帯魚が、大きな珊瑚の岩影からのぞいてぼくの目を捕らえた。

ぼくはそちらに泳いで行った。そして、海面から顔を出すと、すでに水着に着替えて泳ぎ始めていた川上博士をも呼び寄せた。「博士、いいところを見つけましたよ、一杯やってゆきましょう。」という感じだ。

ぼくが近づくとその熱帯魚は尾ヒレを振りながらぼくを誘うように岩の反対側に泳いでゆく。反対側には穴がありその中に入っていった。

ぼくがあきらめて去ろうとすると、また出てきた。ぼくがまたそっちへ行くと、また、中に入る。こういうことを二三回繰り返しているうちに博士がやって来た。

ぼくはその魚を指さして、それは博士にまかせて、こんどはその岩の下のほうに潜っていってみた。すると、岩の底に穴がありその奥のほうから美しい青色の足をたくさん持った地を這う種類の魚がのぞいていた。

この複数の足というのは胸ビレが進化したものだ。博士をまた呼んだ。ぼくが手を伸ばしてその奇妙な魚を指し示すと、それは穴に退歩した。

博士は、それは毒を持っていて刺すので手を出さないほうがいいと言った。博士はまた名前を教えてくれたが、例によってぼくはすぐに忘れてしまった。

しばらくして石塚君も水着をつけて泳ぎ始めた。しかし彼はなかなかこちらに来ないで、浅い砂地のところばかりをうろうろしていた。

ようやく熱帯魚のいるこちらの岩場に来たころにはぼくらはもう飽きてきていて岸に戻り始めていた。

彼は海の経験が浅いからまだあまり深みに来ないほうが安全であることは確かだ。しかし、艶やかな魚は危険な深みに来ないと見れないのだ。

彼は恐る恐るぼくらがいたところに泳いで行った。彼はしばらくそこで潜っていた。彼もあの派手な熱帯魚を見つけたに違いなかった。しかし彼はあまり深くは潜らない。

必ず身体の一部が水面の上にあった。いいぞ、その調子だ、助手君。どんなに艶やかに着飾り誘惑にたけたものも、またどんなに美しい足を持ったものも、君が高見の見物をきめつける限りは害を及ぼすことはできないのだ。

美しいものは離れて鑑賞できればそれで十分ではないか。しかし、自らの技を過信した何と多くの若者たちが美しきものに触れようと深追いをしその美しき毒牙に刺されてきたことか。生命体における美しさはすべて毒素の結晶だ。

美しき人を目の前にしてわれわれが動揺し、たじろいでしまうのは故の無いことではないのだ。ぼくはこの旅行ののちある美しき歌姫と話す機会があり、彼女はその頃放映された日本のビジネスマンの実態を扱ったテレビ番組に言及して、われわれビジネスマンは毎日命をすり減らす思いでお客さんの接待をしなければならず「大変ですね」と憐憫の思いを表してくれた。

そこでぼくはすかさず、「でも、あなたのような美しい方を接待できるのでしたら命がすり減ってもいいのですが」と言うと、彼女もすかさず「私を接待するのは命がけですよ、命がいくつあっても足りませんよ」と笑った。

まじめな話の中よりもこのような冗談の裏に真理が潜んでいることが多い。 ぼくらはその日の目的地を伊良部島と決めた。

そこで宮古島を横断して平良港に向かった。ぼくは腹痛はおさまったが、下痢が止まったわけではなく、その後二三日間のトイレットペーパーの消費量は、普段のときの約一か月分に相当するくらいだった。

とにかくぼくは体力が低下していたので、博士が常に先頭でぼくと助手が後ろから博士の姿を見失わないようについてゆく、というパターンが定常となった。 平良港に向かう途中で、ぼくの全く予期していなかったことが待ち受けていた。

決してパンクしないだろうと信じていたぼくのマウンテンバイクの後ろタイヤがパンクしたのだ。ぼくは、このマウンテンバイクを買ってからツアーに出るときはいつもスペアチューブを持参していたが、ずっとパンクすることはなかったので、とうとうマウンテンバイクは空気さえ十分入れておけばパンクしないものと合点するようになり、ついに今回は荷を軽くするためにスペアチューブは持参していなかった。

石塚君は自転車を止めたぼくを追い抜くとそのまま進んでいった。ぼくは、パンク修理具を取り出して本当に久しぶりのパンク修理を始めた。パンクの穴を見つけるためにチューブにウォータボトルの水をかけてみた。

容赦なく太陽光線が照りつけ、アスファルトを濡らした水もまたたくまに蒸発してしまう。やがてパンクは修理できたが、虫ゴムが古くなっていて空気がなかなかチューブに入っていかない。

そのうち疲労して空気ポンプを押す手に力が入らなくなってきた。そうしているうちにやっと博士たちが引き返してきた。結局、ぼくはしばらく心もとない状態のタイヤのまま1キロくらい走ってガソリンスタンドでエアコンプレッサーのお世話になった。

ぼくらはそのまま平良港に向かい、伊良部島行きの切符を買った。自転車乗船代も安くなかった。

出航まで15分待ち時間があったので、ぼくはひとり市街に引き返し薬局を探した。歯が痛みだしていたので歯と歯の間を磨くブラシを買うためだった。

宮古島に来てから2日目に買ったパイナップル味の砂糖塊(子供の頃よくしゃぶっていたものだ)を、走行中のカロリー源として頻繁にかじっていたのだが、これが歯をむしばみはじめていたらしい。

結局目当ての物はなかったので、デンタル・フロスを買った。ついでにぼくはセブンイレブンに寄って船の中で食べるためににぎり寿司のプラスチックパック入り詰め合わせとミニバナナと青リンゴジュースを買った。

船の出航3・4分前に港に帰ってきたが、博士と助手がいなくなったぼくを探しており、ぼくを見つけると、船がもうすぐ出るぞと急がせた。

確かに船は今にも出航しそうな様子だったのであわてて自転車を積んだ。客室に入ると、前後2室に別れており、前のほうが禁煙室だったのでぼくと石塚君はそちらに入って座った。

愛煙家の博士は後ろの部屋に行った。船室の前の方にテレビがあり広島−横浜大洋戦を実況放送していた。船内テレビの常として映りは悪かった。

東京から去ってはるばる沖縄の離島に来て、その離島のまた離島に渡ろうとする時、ぼくは船上でその存在すら忘れかけていたプロ野球の試合をリアルタイムで見る。

そして、ぼくがかぶっているレッヅのヘルメットが、ブラウン管に映し出される広島カープの選手たちのかぶるヘルメットと同じであることは一目瞭然だ。

ぼくは、もう何年も前から、つまらないから広島カープのファンであることをやめようと努力してきた。そして年々それは成功してきていたかに思えた。

ぼくがかぶるヘルメットも、「カープのヘルメットだ」と言う人には、「レッヅのです」とはっきり断った。そしてそれはアメリカで買ったのだから嘘ではなかった。

さて自分がカープのファンであることがつまらないというのはこうだ。ぼくは広島県で生まれ育ったので自然とカープファンになった。つまりカープは地元のチームだからいい、という単純な理由だ。さて、地元を愛する心理は、対象を広げてゆくと愛国心となり、狭めてゆけば父母への愛情にゆきつく。

自分が属しているものあるいは自分を生んだものが優れているならば自分も優れているはずである、という心情だ。

この「自分の地元が他より優れており、優れたものが優れたものを生み出す」という仮定が正しければ、自分の属しているものに同じく属している者たちはみな優れているはずだということになる。

従って彼らが他と競うとき、彼らは勝つはずであり、さもないと上記仮定が覆される。そこで地元の者をひいきし応援することになる。

つまり地元を愛することは自分を愛する自己愛の一形態である。自分個人に誇るべき何ものをも持たない者も、自分のルーツを誇ることは可能だ。

またそういう人ほど、それが自分をさらに低めるのも気づかず、自分のルーツを頼りに自己を誇張したがる。すなわちこういう人が自己を他人にアピールしようとするとき、自己との関わりのあるもので優れたものを吹聴する。

従って、自分は・・・だというのでなく、自分の何々は・・・なのだというパターンで話すのだ。

すなわち彼らはたいてい次のような言い方をする:自分の祖父は・・・だった、親父は・・・だ、母の実家は・・・だ、いとこに・・・をしているのがいる、俺の高校の同級生が・・・に勤めている、親戚に・・・の資格を持っている人がいる、そしてこのリストのずっと末尾のほうに、ぼくは広島県人でカープファンなんだ、カープはどうやら今年は優勝しそうだね(だからぼくも偉いんだ)、とくるわけだ。

しかしそれとてカープでプレーする選手は広島県外の出身者がほとんどで、カープが優勝したからといって広島県人の価値が少しでも上がるわけではない。

ましてやカープが優勝したとして、選手の給料はうんと上がっても、ぼくらがラジオやテレビにくぎづけになりながら応援したからといってそれでぼくらの給料が少しでも上がるわけでもない。

次に、選手たちはトレードによりチームを移るので、前年までは憎らしいと思っていた選手がカープに移籍してくると一変して応援し始めるし、逆に前年まで応援していた選手も他のチームに移れば次第に応援しなくなる。

これは何か不合理で健全なる精神と調和しがたい。ぼくはだから「カープファンはやめたよ」と公言し続けた。

しかしどうしたことだ、東京から去ってはるばる沖縄の離島に来て、その離島のまた離島に渡ろうとする船上で、シンシナティ・レッヅの赤ヘルをかぶったぼくはテレビを見ながら広島カープをあきらかに応援している。しかもぼくはテレビに映っている赤ヘルとぼくのかぶっている赤ヘルが同じであることを船室内の人たちが気づいてくれればとまで願っているではないか。

ぼくは何という小人間なのだ!せっかくこんな遠くまで来て、しばらくは野球のことなど忘れていたのに、これはまるで、雲に乗ってはるか彼方の地に飛び去って、もうここまで来れば安心だとホッとした孫悟空が、その行く手に立ちはだかる巨大な釈迦の手の指を見て自分の小ささを思い知った、という図ではないか。

船中で食べたにぎり寿司セットはとても旨かった。全国チェーンのスーパーで買った寿司が旨いのはやはり離島ならではだろう。

船は高速艇で、9キロ余りの海路を20分くらいで伊良部島に着いてしまった。ぼくはもっとゆっくりできて、一眠りできるものと思っていたが、青リンゴジュースを飲みほす頃には船は速度を緩めた。

博士は喫煙船室で隣にいたおばさんと話がはずみ、すでに上陸を前にして伊良部島の要所の聞き込みはすんでいた。

宮古島には観光客がたくさん訪れるようになったが、なかなか伊良部島まで足をのばす人はいないので、ここの島民は外からの人を心から歓迎するのだそうだ。

上陸してすぐ目についたのは港湾ビルに掛けられた「架橋早期実現!」と書かれた垂れ幕だった。孤高を選ぶか、それを捨てて他の島との同化を選ぶか、このさいはての離島もその選択を迫られ、ついに決定が下されたのだ。

「すべての道はローマに通ずる」、この大予言は着々と成就しつつある。 ぼくらは急な坂道を上りスーパーマーケットに寄ってその日の夕食の材料を仕入れた。

そのスーパーマーケットの入口の横の大きな透明ガラスに、バーゲンの広告に並んで「祝完走!○○××君!」「おめでとう、伊良部島の鉄人○○××君」と書かれた大きな紙が貼ってあった。

聞くところによると、この鉄人君は島の魚市場に働く青年で、レースのあとに友となった数人のトライアスリートたちを島に招いて案内し新鮮な魚で彼らをもてなしたという。

ぼくは思った。何年かのちに9キロの橋が架けられるときまでこの鉄人君は現役で活躍を続けることができるであろうか。もしできるなら、それこそその橋は彼の栄光を讃えるための凱旋門ならぬ凱旋橋となろう。

レースののち彼は友を従え、自転車で島に帰ってくる。島の人々は彼らを英雄として迎える。しかし彼はこの橋を渡り切ったところで引退を決意する。

今まで彼が何度レースに参加して完走しても行き着くことのできなかった未踏のゴールに彼はついに到達したのだから。

このようなことを思っていると、川上博士と石塚助手が買い物をすませて出てきた。 ぼくらは、坂を再び下って、港に戻り、海岸沿いに進んで渡口の浜を目指したが、途中魚市場に寄った。

ここでは珍しい魚をいろいろ見た。大きなシイラがあり、熱帯魚も混じっていた。

中でもぼくの興味をひいたのは、尾ヒレの付け根あたりに前方に伸びる鉤状の刺を左右に一対持った皿に載るくらいの大きさのカラフルな魚だ。

これはすれ違いざまに相手をぐさりと傷つけるので魚の間では嫌がられている種類だろう。こいつらが集団で襲ってきたら鮫もかなわないだろう。

ぼくらは鮮魚の料理に自信がないので、何も買わないでここを去った。 博士は相変わらず元気で飛ばす。それに比べぼくと石塚助手は一周遅れの選手たちのようにパワーがなくなっていた。

渡口の浜は強い風を受けており、砂浜に打ち寄せる波も高かった。翌朝ここでも泳いでみたが、波が荒いために舞い上がった砂で海中が不透明になっており熱帯魚は一匹もお目にかかれなかった。海を見晴らす展望台がありそこにシャワー設備もあった。

普通ならぼくらはこの展望台の二階のフロアでテントを張るところだったろうが、あまりに風が強く、しかも展望台は吹き晒しであったのでそこはやめた。

ぼくらは展望台が風よけになっていて比較的風の弱まるアダン樹の林の中にテントを張った。大きなヤドカリが歩き回っている。

蚊も多い。ぼくは長袖のスポーツシャツを着、レインパンツをはいて蚊を防いだ。博士は近くにスーパーマーケットがあるのを聞きつけてさっそく蚊取り線香とアルコール類を買いに行った。

三人はテントの近くに炭を炊いて夕食の用意をした。ごはんが炊けると酒を飲むのを中断して食事が始まる。たらふく食べる。

酒もたくさん残っている。話もはずむ。しかし酒席に足りないものがある。どうしたことか歌が出てこないのだ。

博士は歌が好きなのだが、ぼくが彼と同行した北海道旅行の時の旅行記で彼の歌を茶化してしまったので、今回は躊躇してしまったのだろうか。ぼくはカラオケ用のテープを一本持ってきていてひまさえあれば練習するつもりだった。

特にいつもぼくの心をしめつける "Beyond the Reef"を繰り返し歌うつもりだった。しかし体調をくずしていたぼくは気の抜けたビールのようだった。

石塚助手は少なくとも「瀬戸の花嫁」が歌えることは実証済だ。しかし彼はいつものようにおとなしく静かに酒を飲んでいる。だれも歌おうとしない。

ぼくらは火を囲んで、他愛のないことを話しただけで、酒が空しく体内を流れる。話も途切れがちになりやがて絶え間ない波の打ち寄せる音だけが聞こえる。

ホタルが舞う。学生時代のあの乱痴気騒ぎはもうぼくらにはできなくなってしまったのか。カラオケ文化がぼくらをかえっておとなしくさせてしまったのだろうか。あのハイテクの装置がないと我々はもやは歌うことができなくなったのか。

マイクを持たなければぼくらはもはや歌わないのか。歌おう、大声で。さもなければぼくらのこの旅の思い出はやがて降り積もる、時の片の堆積の下に深く埋もれて探り出せなくなる。

思い出の化石と化してしまう。思い出を生き続けさせるのは歌だ。音楽だ。

それぞれの思い出にまつわる音楽のメロディーを口ずさむことによってはじめて我々はその思い出の臨場感を蘇らせることができる。

音楽による条件反射だ。BGMの伴わない思い出は事象として記憶されるだけでその時の心情を再生することは難しい。

なぜなら人の心情は動的なものであるから、やはり音楽のような動的な媒体の上にのみ固定し保存しうるのだ。

ある感情を静的媒体である文章で記録しても、その後にそれを読み返したとき同じ感情がよみがえるであろうか。感情は心臓の鼓動のように時間の関数として起伏する。

音も時間の関数としてオシロスコープにカーブを描く。さすれば時間の関数はすべて時間を共通パラメターとして互いに一対一対応させることが可能ではないか。博士よ、助手君よ、ぼくらは歌を忘れていた!