1992年のゴールデン・ウィークの連休、ぼくは会社の先輩川上氏と後輩石塚君とで沖縄県宮古島にサイクリング旅行に来ていた。
ぼくにとって鹿児島より南に来るのは初めてのことだったし、11日間ののんびりした旅行も社会人になってからは最長記録だった。
飛行機を降りて灼熱の直射日光を受けた瞬間から春休み気分は一転して夏休み気分になった。
そして亜熱帯の休暇が、最初はゆっくりしかしやがて加速度を得たようにあっという間に過ぎていった。
トライアスロン・レース観戦、熱帯魚観察、浜辺でのキャンプ、愛すべき人々・動物との遭遇、離島生活等さまざまなことがあり一日として充実しない日はなかった。
そして最後の日、最後まで島に残ったぼくと川上氏は与那覇前浜(ヨナハマイパマ)のビーチにいた。最後の二夜をここで過ごしたのだ。吹きさらしだが屋根付きでコンクリートの床のあずま屋があり夜雨をおそれたぼくらはここにテントを張っていた。
近くにシャワー施設もあった。飛行場からそんなに遠くない距離に位置していたので石塚君が去るときの前夜もここでテントを張った。
したがって合計三夜をこのマイパマで過ごしたことになる。 最後の二夜のうち第一夜はそのあずま屋は他の家族連れのグループが占領していたので、ぼくらは浜の林の裏の芝生の上に設営した。
星空で雨の心配もなかった。そしてサイクリングの疲労も手伝ってぼくらは眠気を催し早めにテントに潜った。
しかしその夜は浜に地元のキャンパーたちが多くいて遅くまで酒宴にうち興じ、沖縄の独特のするどい口笛と後打ちの囃子「ッアッア」に特徴のある歌が繰り返し聞こえてきた。
まどろみかけると何度もこれで目を覚まされ続けたので、なかなか眠れなかった。キャンプ場ではよくあることだ。
ぼくは浅い眠りのまま彼らの歌声を聞いていた。ふつうならうるさくて眠れないので閉口するところだがこの珍しい沖縄の民謡はぼくを喜ばせた。
直行便で来たこの宮古島は、人々が見かけではヤマトンチュ(大和人)とそれほど変わらないし、食べ物・生活様式も同様だったので、それまでぼくは沖縄に来ているのだという気分になっていなかった。
しかし酒宴で歌われるこの沖縄民謡を聞いて初めて自分はいま大陸文化圏にいるのだと自覚することができた。
そして、その歌は沖縄の人々の明るさとバイタリティーを感じさせる。 帰る前日はマイパマの沖1.5キロにある来間島を訪れた。
島の向こう側の浜で泳いでいると、日焼けで水膨れになっていた両腕の皮膚がついに破れ、水を掻くと海水が入って膨らみ、それはまるで目の異様に膨らんだデメキンの水袋のようだった。他の島と同様に、この島でもサトウキビ畑がほとんどで、家屋の横には牛小屋が必ずといっていいほど付属していた。
来間島から見るマイパマビーチも美しかった。沖縄の島々を見て回ったある人たちはマイパマの浜は随一だと評した。
浜の砂が砂時計の砂のようにきめ細かく、その白い砂浜とエメラルド・グリーンの海とは互いに他を引き立てあっている。
この美しさに目をつけたのであろう、東急がここにリゾートホテルを構えていた。ちなみにトライアスロン・レースはここを出発点とし、この海で最初の水泳が競われた。
さて最後の日の前夜は川上氏とぼくはふたりだけになったあずま屋でオリオン・ビールと泡盛をかわしながら遅くまで語り合った。
キャンパーたちはほとんど去っており静かな夜だ。川上氏は酒が強いので、アルコール度の高いわりに安い地元の泡盛を特に気に入っていて11日間の間に島のほとんどの銘柄を晩酌にした。
酒に興じ、宮古島での日々を振り返っているうちにぼくらはノスタルジックになってしまい、普通なら言わないことまでも互いに語り合った。
熱帯の夜は人の心をすきだらけにする。外ではホタルが点滅している。
川上氏はこの旅行中5月1日付けである自動車会社との合弁会社の専務になったのでそちらの仕事のことも説明してくれた。
石塚君が去ってからの寂しさも手伝い、彼の話もした。家族の話、若い頃の話、信仰の話、他のサイクリング仲間とのさまざまなエピソード、次のサイクリングの計画、そしてまた宮古島での日々を振り返る。
10日ほどばかり前のトライアスロン・レースがもうずいぶん前のことのようになつかしみをもって思い返される。
ぼくらは指を折りながらテントを張った場所を順に挙げてゆく。インギャーで2泊、池間島、与那浜、伊良部島、下地島、大神島・・・こうしているうちにも夜はぼくらから又一日を奪いとって更けていった。
さて最後の日の朝、ぼくは川上氏と軽い朝食を済ませるといつものように浜に出て泳ぐことにした。
朝早かったので泳いでいる人はまだいなかった。
浜を散歩している人がたまにいるくらいだ。
この辺りは岩がほとんど無いので熱帯魚にお目にかかれることはあまりない。近づいてゆくと砂の中にもぐってゆく類の魚がたまにいる。
水の透明度が高いので、比較的深いところを泳いでいても底がよく見えてまるでピーターパンのように空中を漂っているような気分になれる。
少し泳いでは浜に戻って、波打ち際づたいにホテルのほうに歩いて行った。
太陽が高くなるとこのホテルの前の浜だけは東京や大阪等からやってきたヤマトンチュで賑わう。
ビーチではハイレグの女性たちが日光浴をし、沖では水上を駆けるマリンジェットが爆音をたてて波を切る。が、今は静かだ。
昨日の水浴者たちが作った砂の城やそれを囲む運河が波に洗われ廃墟のように崩れかけている。
恋人同士で砂に書いた文字も蟹や鳥たちの足跡で判読不能になってしまっている。
ホテルの前に小さな艀(はしけ)がありそこにホテル客らしい二人の中年男性が立っていて指さしながら水中を見ていた。
ぼくがそこに来るころには二人は浜に戻り向こうに歩いて行っていた。しかしぼくが艀に通じる浮廊を行こうとするとひとりが振り返り、まるでぼくの注意を喚起してくれるかのように艀の水域を指さし、とんきょうな声で「わー、いっぱいいる」と言った。
ぼくは浮廊を歩きながら水中を見てみた。 浮廊の下から辺り一面の水域に魚群が広がっていた。
20センチ位の魚の群れだ。緑がかった灰色をしている。群れの体積は鯨一頭分くらいはあったろう。(こういった経験談を語るとき、人は聞く人を感動させるために真実を誇張しがちだが、ぼくは誇張していない。
鯨一頭分くらいの小魚の群れはそんなに珍しいものではないはずだ。)ぼくはすぐにこの魚たちの群れに泳ぎ入ってみようと、水中眼鏡をつけると艀の突端のほうに歩いて、群れの外の水域に静かに入った。
潜ると巨大な魚群が広さだけでなく厚みも相当あることがわかった。ぼくはしばらくその群れの中に泳ぎ込むのを躊躇した。
テントサイトに近ければ川上氏を呼んで一緒にこの群れを観察したいところだった。ひとりでは心細くなるくらいの大きな群れだ。
それぞれの魚は皆同じ方向を向いている。群れから離れた魚はすぐに群れに吸い寄せられるように戻ってゆく。
ぼくは深呼吸すると思い切って魚群の真ん中に向けて両手を延ばし水を掻いた。剥けた皮膚がフリルのようになびく。ぼくの接近に気づいた魚たちがみなほとんど同時にピクッと体を痙攣させたかと思うと逃げてゆく。
逃げるのが少し遅れた小魚は必死のまなざしで仲間のほうに泳いでゆく。蜘蛛の子が無秩序に散ってゆくというふうでなく、魚群は左右に幕が引かれてゆくように整然と分かれていった。ぼくはこうして魚の大群を二分したが、振り返ってみるとすぐにそれらはまた合体して一体になっている。
ぼくは再びその真ん中に泳ぎ入る。するとまた幕が開く。こうしてぼくは第三幕まで鑑賞した。こんなに多数の魚がいてもぼくは一度も魚に触れることがなかった。
そして結局、魚群はその場所から少しも移動しなかった。あとで、図鑑の写真を見ていてその小魚は沖縄ではグルクンと呼ばれるタカサゴであったと思われる。
巨大な敵だと思っていたのが、いざチャレンジしてみると、意外やそれはジャコの集まりで、ちょっとおどしただけで分散してしまう、そのようなことはよくある。
われわれがこわいと思っているものは、たいてい実はその本質ではなく、むしろ我々の中の臆病さが作り上げた幻の巨人なのだ。ドンキホーテは、風車を巨人と見た。
多くの幽霊は臆病な心の産物だ。ぼくが小魚の大群に向かうのを一瞬ためらったのは、それの持つ巨大なボリュームへの畏敬によるものだった。
それは、雄くじゃくの羽と同じように敵を威嚇する効果がある。またそれら一匹一匹の敵意が一つの思いに結集され、統率されているならば確かに危険があったろう。
しかし彼らの本能は逃げるが勝ちという、賢明な指令を発する。一匹とて攻撃してくるものはない。
ぼくはこのジャコどもを蹴散らすことはできたが、この分身の術を心得た巨鯨をこの艀から追いやることはできなかった。
ジャコらは必ず再結集するからだ。そしてそれが彼らを不滅にする。おそらくはこの不老不死の鯨から見ればぼくは妙な泳ぎ方をする小魚に過ぎなかっただろう。
しかしもう飛行機の時間が気になりだした。そろそろ引きあげよう。 帰る途中にある公共施設でシャワーを浴び、髪をシャンプーしてテントサイトであるあずま屋に戻った。
川上氏にこの魚群への泳ぎ込みの経験を話しながら、テントをたたんで片づけた。そのあと炭、醤油等の不用になった物はお世話になったあずま屋に残し、荷を軽くして自転車の荷造りをし、出発した。
早く自転車の分解収納ができたので時間の余裕ができ、飛行場の近くの理髪店に行ってサッパリした。翌日はもう会社に出勤するのだ。
理髪師は名古屋出身の人だが、奥さんが島の人で、こちらのほうが気に入って、ずっと島にいるという。八重干瀬(やえびし、又はやびじ)の話をしてくれた。
4月に八重干瀬まつりがあり、毎年多くの観光客が訪れ、珊瑚礁に上陸して潮干狩りなどを楽しむという。 旋回しつつ上昇する帰りの飛行機の窓からマイパマの白い浜が見え、午後の太陽に照らされてエメラルド・グリーンの海がきらきらしているのも見えた。
そして、あの東屋の屋根がちらりと確認できたときはジーンとするものが胸を襲った。
結局ぼくらはこのマイパマでは三泊したことになる。やはりぼくらは人が恋しかったから、人の比較的多く集まるこの場所に三度も泊まったのだろうか?始めの頃は人のいない所を選んでテントサイトにしていたが、結局人のいるところに帰ってきた。そして今ぼくらはこんどは人の多過ぎる東京に戻ってゆく。
そこではまた人の集まらないところを探すだろうか、あるいは人恋しさに人の流れに身を任せる果てしな孤独の旅を続けるのだろうか。
飛行機が低空飛行に入ると下は夕暮れが迫っていた。ぼくは沖縄から初めて本土にくる島人の目で富士山や、車が列をなす山間道路を窓から見下ろしていた。
おわり