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旅行記
宮古島の11日間 長光一寛作 '92.4.25〜5.5

われら、渚にすわりて肉を食(は)み、ぶどう酒をあほる 陽(ひ)沈み 闇来たれば 砂に横たわりて寄せる波に夢を浮かべる(オディッセイア) 4月25日(土) 朝、8時45分に羽田をジェット機で出発した。

浜松町の駅で早めにチェックインしておいたので窓側で禁煙の席がとれた。

 ぼくの座ったのは右側で、窓から頂のまだ白い富士山がきれいに見えた。伊豆半島もほぼ全貌を見ることができた。飛行機はやがて高度を上げながら本州から離れて雲の上に出る。

このフライトは南西航空SWALの便だが、ぼくらを乗せたのは実際には親会社のJALのジェット機だった。

ゴールデンウィークの時期になると客が増えるためこの頃から2倍以上の客を乗せられる大型機をピンチヒッターで飛ばすのだろう。

この羽田-宮古間の直行便は国内便としては滞空時間が最も長く、約2時間50分のゆうゆうたるものだ。

これだけかかるので国内便では珍しく機内食が出る。そして宮古島は国内とはいえ亜熱帯地方にあり、ちょっと行き過ぎてしまうと台湾に届いてしまう。

伊豆を過ぎ幾つかの島を雲間に見ていると、やがて翼の下はまぶしく輝く雲しか見えなくなり、その多様な形と白の陰影の美しさに見とれていたが、ついにその単調さに気づいてぼくは窓から顔を離した。

そなえつけのイヤフォーンで落語を聴きはじめたが機内放送で何度か中断されたのでそれもやめ、前の座席の背のネットラックに入っていた南西航空の雑誌コーラルウェイを取り出して見てみることにした。

宮古島に関する情報のページを見ていると、4月26日にトライアスロン・レースがあることが紹介されていた。

26日といえば翌日だ。ぼくは、この時期にその有名な宮古島トライアスロン・レースがあるはずだということは知っていたので運がよければ観戦できると思っていたが、翌日であることを知ってますます興味が膨らんできた。

泳いで、ペダルをこいで、そしてかけって。このレースはすべてのレースの中で最も過酷で最も落伍者の多いレースであろう。

どんなに自転車とマラソンが得意でも、水泳が苦手で時間以内に岸にたどり着けなければ失格となるし、どんなに水泳と自転車で好調でもマラソンで力尽きればゴールにたどり着けない。

したがってこのレースは完走することだけでも大きな栄誉を得ることになる。そして彼らはアイアンマンともストロングマンとも呼ばれ、その後半生はその過酷なレースの回想から滴り続ける甘い蜜によって豊かさを保証される。

ぼくが今、宮古島11日間のサイクリングツアーを振り返りながらその回想を書くこの瞬間にも、彼らはぼくのこの甘いノスタルジーの数倍の甘さの陶酔に浸りながら自分たちのレースを回顧しているに違いない。

ぼくはあすはきっとストロングマンたちを応援しようと心に決めた。彼らの走る姿を見ることができれば、「競争する」ことからは遠のいてしまったぼくにも再び競争心が湧いてくるかもしれない。ぜひトライアスリートたちの競う姿を目撃しよう。

そして彼らの・彼女らの走り去ったあとをゆっくりでも追っていってみよう。 ぼくは雑誌を閉じると、耳栓をしアイマスクで目隠しして睡眠をとった。さて、今回の旅行の同行者は、私の勤める会社の技術部の川上氏(ハンドル名としてジャック・アマノを名乗っている)、特許部同僚の石塚君との三人で、ぼくはマウンテンバイク、川上氏はクロスバイク、石塚君はロードレーサーでの参加だ。

川上氏は今回の旅行の真ん中の5月1日にトヨタとの合弁会社「アドマノックス」へ出向となりその専務となられた。川上氏とは前年の夏にいっしょに北海道道東を走り、石塚君とは一年前のゴールデンウィークに八丈島を走った。

ぼくと川上氏とは5月5日までの滞在だったが、友人の結婚式に出る予定の石塚君は2日にぼくらに見送られて島を去った。

ところで今回宮古島を選んだ理由はこうだ。まずゴールデンウィークはたいていどこへ行っても車がいっぱいで大量の排気ガスを吸わされ健康によくない。

そこでぼくは車の容易に渡れない島を候補にする。去年の八丈島はそうして選ばれた。しかし、5月初旬に八丈島に行ってみると期待に反して泳ぐにはまだ水が冷た過ぎた。水泳を一つの楽しみにしているぼくはそれで今回は沖縄方面の地図を開いた。

しかし、沖縄本島は鉄道がないせいで車が多くサイクリングには適さないと地元から来た人から聞いていたので、考慮の対象にしなかった。すると石垣島か、宮古島ということになった。

最後にぼくが宮古島行きを決定したのは石垣島に行くには那覇で乗り換えねばならないが、宮古島には直行便が飛んでいるということだった。 航空運賃は宮古島まで往復で約7万5千円かかる。

ぼくはそれだけかかるのなら折角だからできるだけ長く滞在したいものだと考えた。ぼくの合理的価値判断によると、航空運賃の経済性は、ある場所に観光の目的で行くとき、そこに行って帰るためにかかる運賃を滞在日数で割ったときの商がいくらかによる。滞在のための基本料金は一日いくらになるか、と見るわけだ。

永く滞在するのなら高価な運賃も報われようというものだ。そこでぼくはせっかく遠くへ行くのだから少しでも永く島に滞在するようスケジュールを組んだ。

こうして、有給休暇を4日分とって、4月25日(土)から5月5日(日)の11日間の長期滞在を計画した。しかし、この一日でも長くという貧乏人根性がぼくに勇み足をさせた。たいてい往復割引は7日間以内の場合に適用され、沖縄方面の場合はこれが10日間となる。

したがって5月4日に帰ることにしておれば、約1万円の割引を受けることができたのだが、1日の差でぼくらは約8万4千円の料金を払うこととなってしまった。

しかし振り返ってみて、5月5日の朝の前浜での魚の大群の中に泳ぎ入る感動的体験のために、この最後の日も思い出に残る捨てがたい日となった。

では宮古での11日間のどの日を捨てて往復割引をとるかと聞かれると、ぼくはやはり一日として譲れないことに気づく。

フィアンセから、何人子供が欲しいのとたずねられて、11人欲しいなと言うと、11人は多すぎてだめよ、せめて10人にしましょうよ、と言われれば、うん10人でもいいや、ということになるが、11人わが子が生まれてしまってから一人捨てて10人にしようということになるとどれもかわいくて捨てがたいものだ。

そして宮古諸島は11日間滞在したぼくらを最後まで飽きさせなかった。 目が覚めると、飛行機は着陸体勢に入っていた。

窓から覗くと島が見えた。これが宮古島か、なるほどなかなかいいとこだぞ、と思っているとすぐに通り過ぎてしまいまた海上に出た。通り過ぎた島は宮古の離島の伊良部島である。

すぐにまた島の上に来た。これが宮古島だった。飛行機の窓から見た宮古島の印象は、畑の多い平らな島というものだった。

あとで、この畑のほとんどはさとうきび畑と判った。まわりの海は浅く、沖のほうでも岩や珊瑚の群が海面すれすれのところにあったり、海面からのぞいていたりして、エメラルドグリーンの海の中に泡立つ白い波がいたるところにそのありかを教えてくれる。この宮古諸島全体が一つの大きな棚の上にのっていることがわかる。

このような美しい海に囲まれた島々が日本にもあることがうれしい。 しかし環境の美しさが必ずしもそこに住む人々の生活の豊かさの指標にならない。

否、むしろ環境の美しいところは未開地の場合が多く零細の生活を見つけることが多い。

ここでも台風や干ばつによる農作物の被害が多く、苛酷な自然との戦いが繰り返された。

今の宮古島は開発も進み不便の少ない島となったが、この島の歴史は現在も保存され観光のポイントともなっている「人頭税の石」に象徴されるごとく島民にとっては薩摩藩や琉球王朝、あるいは島の主により課される重税の下に苦しみ喘ぐ受難の歴史であった。しかし、そのような暗黒時代においてもこの美しいエメラルド色の海は毎日ひねもす宮古の美しい砂浜や切り立つ岸壁に波を打ちつけていたのだ。

そしてその波の下には超天才の芸術作品かのような熱帯魚たちがずっと生息してきたのだ。

それらの美しさが住民の貧困の苦しみをどれだけ忘れさせ和らげたかは知らない。ぼくはどうしてもこのさまざまの熱帯魚の美しさと島の苦難の時代とをうまくマッチさせてイメージすることができない。

ぼくの今までの連想システムの中で熱帯魚はいつも、美しく高価なもの、生きた宝石、従って豊かさと結びついていたのだ。

宝石を散りばめ、美しく着飾った紳士淑女が、必ずしも幸せな人でないように、かつての宮古島はエメラルドの海に囲まれ、星の砂で化粧し、豊かな緑の広葉樹をまとい、いくつかの離島を侍従の如く従えていたが、その実は貧困に苦しむ不運な人々を魂として宿す悲しみの島だった。

宮古島は、沖縄本島の南西約300kmにある宮古諸島の主島である。面積は150平方キロで八丈島の2.2 倍、大島の1.65倍である。三角形の平坦な台地状の島で、山らしい山はなく、最高点は野原岳の109メートルである。

しかしこの野原岳、結局ぼくらはどれがそれなのか見極めることはできなかった。台地の上の野原で一番高いところが109メートルだけあるという意味なのだろうか。

飛行機から真先にタラップを降りると、覚悟していたとはいえ蒸れるような熱気に包まれ、ゴールデンウィークの連休でやって来たぼくらは一気に夏休み気分となった。今からこんなでは、7月8月の暑さはどのようなものなのだろうか・・・暑いというよりは熱いにちがいない。

ただでさえ汗だくになることの多い自転車の組み立て作業を、この暑さの中で長袖のウィンドブレーカーを着たまましたので汗が吹き出してきた。

すぐ上半身裸になってTシャツに着替えたが、黒地のものだったので太陽光をよく吸収し、まるで砂鉄カイロでできたTシャツを着ているように温かかった。 空港のロビーには練習中のトライアスリートたちがレースウェアのままやってきて、その時到着した仲間を迎えていた。

ぼくらは、自転車を組み立て、ボトルに水を入れ、記念写真を撮り、追い風に帆を膨らませるヨットの如く、期待に胸を膨らませて空港を出走した。するとすぐに、レースに備えて最終調整をするレーサーたちを見かけた。

そしてコースとなる道のわきには選手の名前と激励文を大きく書いた白地の横幕がたくさん見られた。昼がかなり過ぎてぼくらは昼食のパンや牛乳を買うために店に入った。

レースパンツをはいたぼくらの姿を見た店のおばさんが笑顔で、あすのレースは頑張ってね、というようなことを地元の言葉を交えて言う。

おばさんとしては精一杯に標準語を使おうとしているのだろうが、すぐには意味がとれなかった。ぼくらはすぐにレースには出ないのだと弁解した。

特にこの島ではトライアスリートたちはヒーローとして尊敬されるので、ぼくらは冗談でもトライアスリートの振りをすることをはばかった。またそれと同時に、この島に限らずどこでも多くの皮肉者たちは、(それはぼくらが会ったあるトライアスリート自身もそう告白していたのだから全くの的外れでもなさそうなのだが)、トライアスリートたちは単なる馬鹿ではなかろうかと言う。

ぼくらは笑顔のおばさんがどちらにくみするにしても、トライアスリートの振りをすることをはばかった。

この日会う人のほとんどは、ぼくらに同様の激励の言葉を掛けてくれ、そのたびにぼくらは応援するだけだと弁解し、また、レースが終わってからは今度は、「完走したか」「何位だったか」「来年もまた来るかね」などと聞かれ、そのたびにぼくらはトライアスリートでないことを釈明するのであった。

現地の人がぼくらを地元の人間と思って話してくるとき、たいてい二三度聞き返さないと意味がとれない。若い人なら問題はないが、年配の人の場合は、なかなか意志疎通がスムーズにはゆかない。

地元の人どうしが話しているのを横で聞いていると全く意味の判らないのが普通だ。 ぼくらが最初に海辺に出たのは与那覇前浜(まいぱま)ビーチだ。ここには東急リゾートホテルがある。

沖縄県の全諸島を見て回ったある人たちはここを沖縄のナンバーワンビーチとして選んだ。白砂が4キロにわたって続く規模とその砂の質が決め手となったという(「沖縄35島」真島満秀、加藤庸二共著;桐原書店)。

ぼくらはこのビーチに自転車に乗ったまま侵入してきたが、砂にすぐにタイヤをとられてしまった。ぼくらは木陰で砂の上に座って昼食のパンを食べた。

ここの細かい白い砂は砂時計に使われるもののように液体のようにさらさらして肌触りのいいものだった。1.5キロほど沖に来間島(くりまじま)が横たわっており、その島へこちらからの架橋工事が進行中で、ほぼ2/3ほどが完成していた。

ここでは、水泳の練習をしているトライアスリートが5・6人いた。恐らく、彼らはスウィムが一番苦手なのだろう、あすの本番でもしかしたら規定時間以内に岸に戻ってこれずスウィムで早々に失格になるというおそれが強く、その後の自転車とマラソンの練習をいくらしても無意味になってしまうという悪い予感を抱いていたのだろうか。

ぼくはひとり波打ち際まで歩いてゆき、そこで波に濡れた砂を両手でつかんでみた。何というきめ細かく柔らかい砂だろう。

しばらくぼくは砂をつかんだままで宮古島での初めての感激が両の掌から身体にしみ込んでゆくにまかせた。

川上氏は昨夜、自宅で旅行の準備をしながらウィスキーをちびちびやっていてつい深酒をしてしまい、旅行の初日は二日酔い気味で、それに加えてこの急激な温度環境の変化によっていつもの元気がなかった。

前浜を出発してからしばらくして道に迷った。先頭を走る川上氏が三叉路で自転車を止めた。「休むぞ!」「今度の旅はのんびりやりましょう」「そうしょうや」川上氏は木陰にすわり、タバコをふかしながら地図を広げた。石塚君はズボンが汚れるのが気になるのか決して地べたに直接すわらない。

ぼくは、川上氏のそばにすわり、彼の指が地図の上を滑るのを見る。彼は地図の上でぼくらの現在位置を見つけようとしている。

石塚君はそれに何の興味も示さない。彼は始めからすべてをぼくらに任せているのだ。

そして、ぼくもこのあたりでこれからの行程は川上氏にすべて任せようという気になっていた。いや、むしろできることなら三人とも地図をすべて捨て、ぼくらの野性の導くままに走ってもいいと思った。

どんなに道に迷っても、宮古島からさまよい出ることはあるまい。あるいは地図に頼ってでは決して到達できないユートピアのごとき秘境にさまよい込めるかも知れない。

ぼくは今回のツアーを旅というよりは生活と考えていた。雨が降れば一日中テントの中にこもってのんびりしてればいい。

眠くなれば寝、目が覚めれば横になったまま読書でもすればいい。ぼくはさらに仕事をする用意もしてきていた。今これを記述しているOASYS の文字通り背広の内ポケットに入るワープロ "Pocket" は、こういったツアーサイクリング中にも仕事をすることを可能にしてくれる。ただ、テントの中で寝そべってキーを打つのは難しい。ぼくは、学生だった20年くらい前に travelling workerの夢を持っていた。

まずぼくの職業種は科学技術分野の翻訳だった。そして各地の宿を転々としながら、住所不定の状態で仕事をするわけだ。

宿で仕事をしたり喫茶店、図書館、あるいは公園で仕事をしてもいい。

翻訳が出来上がれば依頼主に郵送する。収入は旅費と宿代と食費が稼げればいい。こんな人生をぼくは真剣に考えていた。

そして、今初めて宮古島で寝場所を転々としながらポケットワープロという利器を持って travelling workerのまねをしようとしている。

しかし、宮古島での11日間は余りにも充実しすぎていて仕事に気持ちが向くひまはなかった。 その日ぼくらは、友利という村から坂道を海のほうに下ったところにあるインギャーという海泉の湧く小さな内海の畔でテントを張った。

そこは全体が公園になっており、すぐそばに3・4分で登れる小さな丘があり、その頂上には展望台がありその屋根の上にはなぜか牛の像が立っていた。翌朝ぼくがひとりで散歩していて見つけたのだが、この丘の反対側はキャンプ場になっていて、水道やバーベキュー炉の設備もあった。

しかし、そこには夜通しそこでたむろしていたに違いない高校生らしい5・6人の男女が酒を飲んでいてあまりいい雰囲気ではなかった。

夕食後、ぼくと石塚君がヘッドランプで道を照らしながら近くのシャワー設備のあるトイレに向かっていると、大きな甲殻類の生物に遭遇した。カニにしては甲羅がなかったのでぼくは大きなエビかと思った。あまりに珍しかったのでぼくはすぐ引き返し、生物に詳しい川上氏を連れて再び現場に戻った。

エビであれば捕まえて食べようと提案した。彼もそれは初めて見るらしかったが、さすがに博識者、すぐに椰子蟹(ヤシガニ)だと特定した。そしてエビが海からはい上がってくることはまずないと付け加えた。

ぼくが前から近づくとそのヤシガニは大きなはさみをかかげてこちらを威嚇した。そこで後ろ側に回って背中をつつくと、あわてて草むらに逃げてしまった。その後もう二度とその種のカニに出合わなかったので、あのヤシガニを写真にとっておくべきだったとあとでぼくらは残念がった。

実はこのヤシガニ、後で調べてわかったのだが、宮古の味の王様と呼ばれている美味の甲殻類動物で一番近い親戚はヤドカリであるらしい。従ってカニの味ともエビの味とも違う、ヤドカリの味がするらしい。

そのまま丸ごとゆでて食べるもので、特にお尻のところのミソがとろりと甘いという('92 るるぶ沖縄)。お尻のミソがおいしい点ではカニ類もそうだ。が、読者諸氏よ、もしかしてこの傾向は甲殻類にとどまらず、もっともっと普遍的なものではなろうか?我々はもっと研究熱心になっていろんな動物の「お尻のところのミソ」を試食してみるべきではなかろうか?

あるいはそこにこそすべての美食家にとっての夢また夢の味である、神饌の ambrosia が初めて発見されるかもしれない。 ところでヤシガニはその美味のため捕まえて食べる人が多く、しだいに数が減ってきているということだ。

しかし味覚に関しても好奇心の旺盛なさすがの川上氏も、「あまり旨そうじゃねえな」と食する気が起こらなかったくらいの異様な様相を呈していて、旨いものは旨そうに見えない、という自然の保護の鎧を授かっていた。

最初に食べた人は勇気ある人であったろう。いや実情は、飢えた人間のすさまじい食欲にはヤシガニも兜を脱がざるをえなかった、というところだろう。そして一旦味をしめると人はもう容赦しない。北海道の毛ガニしかりである。

なおヤシガニという名がつけられているが、ここにはヤシはないので、ここのはアダンの木に登りその実を好物とする。

ところでシャワーのことに少し言及したが、宮古島には至るところに海水浴場があり、そのほとんどにシャワー室付きのトイレの設備が有るので、その近くでキャンピングすれば水道も使えて便利だ。

そしてぼくらはほとんど毎日寝る前にシャワーを浴びた。温泉はもちろん銭湯もないこの島では冷たいシャワーは欠かせない。