目が覚めるとすぐぼくはテントから出て、インギャーの内海の畔を一周しようと岸沿いに散歩した。水辺にいた魚たちはぼくの足音で逃げてゆく。
浅い底をよく見ると、砂がこんもりと小さく盛り上がっているのがいくつもある。そしてそのてっぺんに小さな穴がありそこから泉が出ているようだった。
これが海泉の正体らしかった。やがて切り立った山肌がせまり、水の中に入らないと先に進めないような所に来たので岸辺を外れ、草むらをのぼり小さなアスレチックフィールドを越えて丘の反対側に出た。
そこのキャンプ場で前述したように昨夜より朝まで徹夜でいたらしい少年少女の一群に遭遇した。彼らはあずま屋のテーブルを囲んですわり、その真ん中に1/4くらい中身の残った泡盛の一升瓶をおいて飲み食いしていた。
中に妙に馴れ馴れしく話しかけてくる少年がいて、ぼくがそばを通り過ぎようとすると、きょうはトライアスロンに出るのかと聞き、そうでないと言うと、一杯やっていかないかと誘い、断ると、電話してねと言って電話番号を言った。すると他の者たちもアッハッハと笑った。
悪意のある連中ではないのだが、こちら側でテントを張っていたら安眠できないところだった。
ぼくは、こんどは丘の海側のふもとの道を通ってテントサイトに向かった。この辺の海岸は前浜とはうって変わってごつごつした岩がたくさんあり、それらは溶岩と思われた。
漁をしている男性がひとり槍を手にし発泡スチロールの大きな板をひもで引っ張りながら沖のほうへ泳いでいっている。
内海のほうではダイバーがふたり潜っている。 今回のぼくらのツアーの目的は、透明度の高い海を楽しむもので、海辺でののんびりしたテント生活に都会で味わえない喜びを体験することにあった。
サイクリングよりもスウィミングのほうが目当てだ。そこでぼくは朝食をすませると、小さな湖のような内海に入っていった。
最初は冷たいと思ったがすぐに慣れると水の中も気持ちよい。海泉が湧くだけあってここの水はあまりしょっぱくない。
海草が多いので小魚がたくさん集まってきているようだった。 海に近い岩場のほうに泳いでゆくとついにめぐり会った。
最初に見つけたのは、輝くようなコバルトブルーの小指くらいのサイズの魚で岩のあたりを漂うように群がっていた。
これらは近づいていっても逃げない。つかもうとするとやっと決心したかのように岩の反対側にゆく。この種はどこへ行っても見かけたので、とうとう宮古島を去るころには見飽きてしまいゴミのように思うようになった。
さらに泳いでゆくと、近づくといやがって岩かげに隠れるが決してその岩から去ろうとはしない掌くらいの美しい熱帯魚がいた。そばには体は黒いが顔だけオレンジ色をしたのがちょろちょろしている。
(ぼくは川上氏のように博物マニアでないので、これらの魚の名前を知らないし、また教えてもらってもすぐに忘れてしまう。)これら熱帯魚たちはどうやら決まった岩に住んでいるらしく、行動範囲は岩のまわりに限られているようだ。しつこく追うと、岩にできた穴に入っていく。
すばやく遠くへ逃げるのは、いつも大小の群れを成して泳ぐうまそうな魚たちだけだ。それらは岩に住んでいるのでないらしく逃げると戻ってこない。
「うまそうなのは襲われる」太古からの経験則がそれらの魚の本能にインプットされ遺伝子に組み込まれて受け継がれているのだろう。逆に、熱帯魚は襲われないと知っているのか、神経質な逃げ方をしないので余り近づかなければゆっくり鑑賞できる。
熱帯魚の美しさについては読者諸氏も水族館等で十分堪能されていようからあえて詳述しない。むしろ適切な照明を当てられて水槽の中を泳ぐ熱帯魚をガラス越しに見ていたほうが、その美しさをより満喫できるだろう。
しかし、魚たちと一緒に泳ぎながら彼らを鑑賞することには水族館等では体験できない魅力がある。この魅力を的確に表現してくれているのが以下の引用文だ。
これは青木恵哉著「選ばれた島」(新教出版社)から得た。 『渚の岩に立てば降り注ぐ陽光が海底まで通り、珊瑚礁のあいだを遊泳する色さまざまな熱帯魚の美しさはたとえようがない。・・・沖縄の海は清澄で美しい。
水中眼鏡をかけてとびこむと、あらゆる色と形、静と動とが完全な調和を保ち、その美しさは呼吸するために顔を水面から上げるのさえ惜しいくらいである。』 海の中には人の手でなく神の手により調和された文字通り息もつかせない美しさが展開しているのだ。
さて、ぼくらが入手していたトライアスロン・コースポイント通過予想時間表によると友利あたりに先頭の自転車がやって来るのは10時半くらいだった。
そこでぼくらは10時ころにインギャーを出発した。途中道に迷い、さらに鉄砲玉のようにあらぬ方向に走って行った石塚君を追いかける一幕もあり、やっと11時頃に太平洋側の村である吉野あたりで初めて自転車で駆け抜けるトライアスリートたちを見つけた。とおにトップグループは通過していた。
ぼくらはしばらくそこで応援した。そしてぼくらも彼らと同じ方向に進むことにした。めざすは東平安名岬(あがりへんなざき)だ。
(ちなみに、東を「あがり」と読むのは太陽が上がるのが東だからで、日の入る西は「いり」と読む。)
レースの邪魔にならないよう歩道側を走ったが、水やバナナ、オレンジピースなどを選手に渡すエイドステーション等は歩道をふさぐように設置されていたり、それらの物を補給するための車などが歩道をふさいでいたので、そういうときは車道に出た。
すると道端に旗を持って並ぶ部落総出にちがいない老若男女の応援団がぼくらにも頑張れとおしみない声援を送ってくれた。
ぼくらは手や旗を振って声援に応えた。 片手に持ったウォーターボトルから水を飲みながらぼくらを追い越してゆくトライアスリートたちに「ファイト!」とか「頑張ってください」などと言って励ましていると「サイクリング頑張ってくださいね」と逆に励まされたり、「どちらから来たのですか」などとたずねてくる余裕派もいた。
ぼくらが東平安名岬の突端に着くころには、もうレースの最後尾あたりの連中がやって来るようになり、女性レーサーも多くなった。
道端にはレーサーたちが捨てた空になったウォーターボトルやバナナの皮、スポンジなどが転がっていた。ボトルを拾ってみると、真ん中に宮古島の略地図が三角形の中に描かれその中に"STRONG MAN"とあり、上部には"MIYAKOJIMA APRIL 26, 1992" そして下部には "THE 8TH ALL JAPAN TRIATHLON"とあり、三角形の三辺の外に泳ぐ人、自転車をこぐ人、走る人の略絵があり、その下にそれぞれ 3km, 155km, 42.195km と記されてあった。
ぼくは記念に一つもらって帰ることにした。そして川上氏は食器を洗うときに役に立つとスポンジも二つくらい手に入れた。 さてここでぼくは読者諸氏にクイズを出させてもらおう。
このトライアスロン・レースは朝8時に美しい前浜をスタートし3キロのスウィム、155キロのバイク、42.195キロのマラソンと続く。
この全行程を夜の10時までに完走しなければ失格となる。では質問。トップでゴールインした人は何時頃にテープを切ったでしょうか? 答えは3時半頃。すなわち第一位完走者と最後の完走者とで6時間半の差が生じるわけです。
チャンピオンは7時間半の苦しみを経たのちに栄光の座に付き、最後の完走者はその倍近い14時間の苦しみののちやっとゴールインする。
そして途中で失格したり棄権したりで永遠にゴールインできない者たちも大勢いる。 この過酷なレースは人生の苛酷さをも示唆していないだろうか。
「参加することに意義がある」とよく言う。この「参加」の意味はこの種のレースの場合完走することであろう。
しかしタイムリミットを刻む時計の秒針に追い越されてしまった者は失格してしまう。トライアスリートたちは腕時計を見ながら自分の持ち時間があとどれほど残っているか、その時の迫るのを知ることができる。しかし人生においてはわれわれは自分のタイムリミットを知るすべを持たない。
なんと多くの人たちが苦しみ喘いだのちにやっと栄光のゴールを眼前にし、歓喜した瞬間、冷酷なストップウォッチの秒針に心臓を串差しにされてしまったことか。
トライアスロンはサバイバルレースだ。最後まで倒れてはならない。生き残ること。人生も同じ。苦しむことと生き残ることが等号で結ばれた苛酷なレースなのだ。 しかしトライアスリートたちよ、君らはなぜにその苦難に満ちた人間の運命を縮図にしてぼくらや沿道の応援者に演じてみせるのだ。ぼくらに何を警告する必要があろうか。それともその縮図の中に注視すれば発見できる救いでもあるというのか。
君らの苦しむ顔に他では見られない美しさが表われるとでもいうのか。追う者よ、逃げる者よ、競う者たちよ、こんな素晴らしい自然の中をなぜそんなに喘ぎ苦しみながら急ぐ。君たちの縮めた時間を僕たちツアーサイクリストは、また元通りに引き延ばしながらのんびり進んでゆく。ぼくらには君らの受ける人々の声援はない。
約束された栄光もない。しかしぼくらは、鳥の声を聞く、川の流れる音を遠くにも近くにも聞く、腹が空けばペダルをこぎながらでなく木陰に腰をおろして食事する。
追い抜かなくてはならない人も、追い抜かれてはならない人もいない。ただ、日の沈むまでに寝場所を見つければよいのだ。
ぼくらはコースに沿って東平安名岬の突端までゆき、最終走者の折り返して行くのを見送った後、あたりを散策した。折り返し地点のエイドステーションでは民謡がスピーカーから流れ、民俗衣装を来た若い女性が二三人いて南の島の雰囲気を作り上げていた。
子供たちが選手の投げ捨てたウォーターボトルを探しており、水が入っているのを見つけたといって喜んでいる子もいた。
しかし選手たちが皆去ったあとは、エイドステーションの人たちは子供たちを交え、ピクニックを始め、バーベキューや焼きそばを作りはじめた。彼らは仕事が終わったのだ。この細長い岬は1周目だけ選手たちはピストン走行するが、2周目はもう岬には進入しないで通り過ぎてゆくのだ。
この岬の端に立てば333度の中心角を持つ扇形の海を見ることが出来る。水平線はその円弧だ。足元の岩はみな溶岩だった。
おそらく海底火山の噴火によってできた島なのだろう。海にもこのような粗く多孔質の岩がたくさん転がっていた。
川上氏が本土にはいないハエくらいの大きさのセミを見つけた。木に止まるのでなく草の葉に止まっていた。
彼は去年北海道をいっしょに走ったときも北海道にしかいない蝦夷ゼミを見つけた。博物学者であったご尊父に恥じず、彼も動植物に関する観察眼が鋭い。ぼくはここで彼に博士号を授けることにした。
東平安名岬の付け根付近にある三叉路にもどると、そこのエイドステーションでそろそろ2周目のトップが近づいているということだったので、ぼくらはそこでしばらく観戦することにした。トップは去年優勝したというパドリだった。
しかし彼は自転車でとばし過ぎたらしくあとのマラソンで去年2位だった宮塚に追い抜かれて去年の順位が入れ替わることになる。 ぼくらは、勢いよく通過してゆく選手たちの姿をしばらく時間の過ぎるのも忘れて見ていた。
やがてぼくらはレースの邪魔にならないよう海岸沿いの道を進み、再びレースコースと合流するところでパンとおむすびとビールの昼食をしながらレースを観戦した。
さらに、そこから下に見えた魅力的な砂浜に下りてゆき1時間近く泳いだりした。遠くまで浅いので、泳ぎが不得手で海で泳いだことがまだないという石塚君も安心して水に入った。ただ彼は水着を自転車のところに置いてきたので、ふるっちんだった。
そうだ、彼は処女航海にふさわしく一糸まとわぬ姿で進水しくまなく塩水の洗礼を受けたのだ。 ぼくらは泳ぎ終わると、坂道の途中にあった冷泉をコンクリートでプールしているところで体を洗った。ぼくは石鹸で頭もシャンプーした。
しばらくつかっていると冷たさにも慣れ、露天風呂につかっている気分になった。このような泉は、島のいくつかの切り立った断崖の下に見つけたが、水道がまだなかった頃には、島民は急で危険ながけ道をおりてこのような泉に水を汲みに来たのだ。
そしてこのコンクリートのプールはなにも水浴をするためのものではなく、複数の人が一度に洗濯したり、水を汲めるようにするためのものだ。
上に登って休憩所のベンチで再びのんびりトライアスロンレースを観戦した。ぼくらが泳ぎにゆく前にこのベンチには若いアベックがいたが、彼らの去ったあとになぜか南西航空の毛布が置かれてあった。
おそらく彼らが飛行機から持ち出してきたものであろう。このままここに放置しておけば風雨にさらされ貴重な資源を損失してしまう。
そこで川上博士はこれを有効利用すべく携行することにした。今回彼もぼくもシュラフは持参しなかった。
ぼくは羽毛のテントシューズやシュラフカバーを用意していたのでテントの中で寒いと思ったことはなかったが、博士は朝寒かったと言い、その後はこの毛布のおかげで快適なテント生活を送れることとなった。
しばらくして2周目の最終ライダーである女性選手がやってき、そのうしろからレスキューバンが「これが最終走者です」とスピーカーでエイドステーションの人たちに伝え、「ご苦労さまでした」と労をねぎらってのろのろと通過して行った。
東平安名岬の突端で1周目の最終ライダーだったある初老のおじさんはもういなかった。
あの時ぼくらが岬の突端のトイレで用を足し、ボトルに水を入れて出てくると、このおじさんは道わきにロードレーサーを止めた。ぼくらはコースはあっちですよと教えてあげたが、彼は「ここはトイレですか」とやはり用を足しに入っていった。
するとまもなく最終ライダーとその後に続くレスキューバンが通り過ぎていった。そしておじさんは幻の最終ライダーとなってバンを追って行ったのだった。しかし2周目にはその幻ももうなかった。
その後ぼくらは、トライアスロンの自転車コースをたどって東平安名岬を後にした。やがて雨が降り始めた。
これはトライアスリートたちには好都合であったに違いない。しかしぼくらにとってはつらい雨だ。
ある坂を上りきったところで自分たちが今どのあたりにいるのかわからなくなり、地図を見てみることになった。しばらくじっと地図をにらんでいるとさすがに寒くなってきた。
ぼくはステンレス製真空断熱ポットに湯を入れていることを思い出し、博士に紅茶を飲んで休みましょう、と提案した。
この紅茶、博士が愛飲するところのもので、東京でたくさん買って持参した。彼は頻繁に湯を沸かし、特に朝は必ず3人分の湯を沸かすことが彼の一日の最初の日課で、この紅茶を防水袋から取り出しストレートで飲んだ。いつもぼくらにも分けてくれたので、ぼくも旅行が終わるころには少々ストレート紅茶を愛好するようになってきた。
さて、この小雨の中で飲んだ紅茶は最高だった。そしてぼくはこの何の変哲もない一時のことを、まるでもうずっと前のことのようにその後の宮古でのサイクリング旅行の間何度もなつかしく思い返した。
ぼくらはトライアスロンのコースに沿って進んだので、その朝いた友利に再び戻ってきた。いったんやんでいた雨が再び降り始めたので、時間はまだ早かったが、知らないところへ行って雨の中を新たにテントサイトを探すよりは、ぼくがその朝見つけたインギャーのキャンプ場に行くことにした。
食料は友利のスーパーマーケットで買い、焼き肉主体の料理をすることにした。
キャンプ場に着いた途端、雨足が激しくなったのでぼくらは屋根とベンチのある所に入って様子を見た。そこはゲートボール場の細長い休憩所で、海側に一棟と山側に一棟あり、ぼくらは後者にまず逃げ込んだ。
最前までゲートボールをしていた10人くらいの中年男女が、雨が降りだしたので山側の棟でバーベキューの用意を始めていた。
そこでぼくらは海側の棟に自転車を移し、荷を下ろした。雨が再び上がると博士は水道が近いということで、20メートルくらい離れたところにあるあずま家のほうに荷を移動し、今夜はそこでテントを張ると決めた。
そこはしかし3人でテントを張るには狭いようだったし、その朝そこでたむろしていた例の少年少女らが一升瓶を割ったらしくガラスの破片がコンクリート床の上に散らばっていて、ぼくは海側のゲートボール休憩所でテントを張ることにした。
石塚君のテントはコンクリートの上に張るには大きな石を6個運んできて、それでペグを固定せねばならないので、土の上に張れる休憩所のほうに来て、ぼくの隣にテントを張った。
やがてスコールは止んだ。 その夜も、材料を買い過ぎていて、食べきれず、残りものを翌朝の朝食のために取っておくことになった。しかしそれでも食べきれないほどであった。米は水の加減がうまくゆかず、その夜も前夜と同じく、柔らか過ぎるのだが底の部分は少し焦げているといった具合だった。