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買上糖制度  かいあげとうせいど
王府が貢糖以外の剰余砂糖を、農民から安い価格で買い上げ、薩摩に売る制度。その起源は定かでないが、1735年説が有力。近代に入り金納が認められた後も同制度は残り、砂糖は現物納であった。1899年(明治32)廃止された。
頭   かしら
近世琉球の宮古・八重山の行政の長。各間切ごとの長として大首里大屋子がおり、これが同時に頭を兼ねた。頭は三人おり、当時の行政府である蔵元に頭は出仕し三人の合議で行政が行われた。位階名は、親雲上であった。
寛永通宝   かんえいつうほう
江戸期の代表的貨幣で、近世琉球でも通用した。一文銭と五文銭があり、また鉄銭と銅銭があった。1636年幕府によって本格的に鋳造され、琉球へは1670頃広まった。一文銭が琉球銭である鳩目銭五十文に相当した。
甘藷   かんしょ
サツマイモのこと。古代アンデス文明圏で栽培作物として発達した。沖縄には1605年、野国総官が中国福建からもたらした。その後儀間真常の努力で全県的に普及し、庶民の常食となる。さらに薩摩経由で全国的に普及した
蔵元   くらもと
近世琉球の宮古・八重山および久米島の具志川・仲里両間切に置かれた政庁。先島の蔵元は16世紀前半設置され、廃藩置県まで存在した。先島は頭のである大首里大屋子以下の役人が勤務、久米島は在番・地頭代などが勤務した。
慶長検地    けいちょうけんち
1609〜11年薩摩藩によって行われた検地。薩摩藩は、侵攻直後から検地を開始し、89,086石(奄美を除く)と石高が査定された。後に、宮古島石高に違算があったとして、83,085石となった。丈量単位は太閤検地と同じ。
夏子陽
中国江西省の人で、1606年、尚寧王の冊封として琉球に来島した。副使王士禎ともに『使琉球録』を著している。夏子陽の来琉は、島津侵入直前であり、使録は当時の琉球の実情を知ることのできる好史料である。
宜湾朝保
1862〜75年までの三司官で、歌人。1968年、維新慶賀の副使として上京、尚泰を琉球藩王封ずるとの命をうける。しかし、琉球処分へつながり非難をうけ、三司官を辞任。歌集に『沖縄集』『沖縄集第二編』『松風集』がある。
金志川豊見親
15世紀末から16世紀初頭の宮古南部地域の支配者。兄金盛(カニモリ)と弟ナキタツがいる。金盛はアカハチの乱に従軍したが、帰途多良間で変死した。ナキタツは、「大般若経」を求めるなど王府とも接点があった。しかし、仲屋金盛に謀殺された。