バジル・ホール
英国海軍士官、英艦ライラ号の艦長。中国へ派遣されたアーマスト使節団を護送後、1816年、僚艦アルセスト号(艦長マクロード)とともに来琉した。帰国後『大琉球探険航海記』刊行、琉球をヨーロッパに紹介し印象づけた。
フォルカード
1844年から約2年間琉球に滞在したフランス人宣教師。アルクメーヌ号で来琉し、琉球の拒否を押し切って天久聖元寺に滞在し、『琉仏辞典』を執筆した。本来の目的である布教には、監視が厳しく成功しなかった。
ベッテルハイム
英国のプロテスタント宣教師で医師。漢字名は伯徳令。1846〜54年、那覇の護国寺に滞在し布教活動をした。医療活動を行い、数名の信者を得たとされる。しかし、厳しい監視のため奇行もあった。『琉訳聖書』などを残す。
ペリー
米国海軍軍人。1852年3月、日本開国交渉のための特命全件大使に任命され東インド艦隊を率いて、1853年7月、江戸湾に来航し日本中を震撼させた。日本来航の前に琉球にも寄港し、琉球・小笠原諸島を調査、首里城を強行訪問した。日本開国に失敗すれば、琉球か小笠原を占領する予定であったという。最初の幕府との交渉後琉球に寄港、泊に貯炭所を確保、さらに日米和親条約締結後にも琉球に寄港、琉米修好条約を締結した。