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旅行記
4月28日   長光一寛作

未明より風を伴うかなりの雨が降った。外が明るくなってからも、やがて雨が止んでからも、ぼくは横になったまま浅い眠りと瞑想を繰り返していた。

 

眠りから覚めると、あることを瞑想し、しばらくすると次第にその思いが fade out し、再び眠りが訪れ、そして目が覚めるとまた同じ瞑想が始まる。

そのたびにぼくの体は、寄せては引く波に揺れる波打ち際の丸棒よろしく寝返りをうった。とりとめのない瞑想は次第に浅い眠りの中の夢と交錯し、さらに込み入った難解な迷路にぼくを導き入れた。

9時過ぎになってぼくはこのとめどもない繰り返しから身体をふり切ってテントから顔を出した。すると、博士と助手君のふたりは来訪者を接待していた。

それは男性トライアスリートだった。彼は、レース中は必死で走ったので周りの景色がほとんど目に入らなかった、例えばここでは西平安名岬の発電用風車が回るのは見たが、その他の風景の記憶は全くないと言う。

それで今こうしてゆっくりレースのあとをたどりながら、素晴らしい景色を堪能しているのだそうだ。この人の自信に満ちた他人に対する親しみの込め方から、過酷なレースを完走した者であることがうかがえた。

やがてぼくらはいつもより遅い朝食を済ませると、島巡りをするために、テントは設営したままで貴重品だけを身につけて自転車で1時間余り走った。

ブロックモニュメントの内壁に貼ってあったプラスティックの新しい絵入り地図によると池間島には大きな沼があり、木製の遊歩道も設備されており、白い野鳥もいる。

そこでぼくらはまず沼を探した。しかし道はすべて微妙にカーブしており、しばらく走っていると同じ所に出てきたりしてぼくらの方向感覚もマヒしてきた。

それに、この島は標識がなく地図も役に立ちそうでなかった。とうとうサトウキビ畑のお婆さんに沼の場所を聞いた。するとこのお婆さんの反応が興味深かった。

彼女は我々が沼を探しているのは、喉が乾いて水が欲しいからだと思い込んだのだ。だから場所を教えてくれるのではなく、今はもう誰もあそこの水は飲みませんよ、どこそこに行くと水道がありますよ、と言う。

ぼくが、水が欲しいんじゃないのです、と話しても老婦人は「昔の人はあそこで水を飲んではいたけど・・・」といつまでも飲料水のことにこだわった。

今では宮古島からパイプラインが来ていて、島の人は水道で水を得られるが、かつてはここの人々は沼から貴重な水を得、海水で用が足せるものはできるだけ海水を使っていたのだ。

島の老婆にとって、人が沼へ行く目的は飲料水を得る事以外には考えられないことだったのだろう。

この地方の人魚伝説によると、美しい人魚が漁師に捕らえられ、まさに味見をされそうになったとき、彼女は海の神に呼ばわり助けを求めた。

すると津波が襲ってきて島は波で洗われ、人魚はその波に乗って海に逃げ帰った。

そして、その津波によってできたのがこの沼であるという。 ぼくらは、道を聞いてからも迷い続け、ついに大橋からは島の反対側にあたる灯台に出た。

ここから左折し、野生のアサガオが咲いている砂利道を下って島の北側の浜に出た。自転車を置いて、海辺に出てみた。浜で珍しい形をした貝殻を拾ったり写真を撮ったりしたのち、そこにあった小舟のふなべりに腰を下ろして海を眺めてのんびりしていた。

すると、一目で島の漁師とわかる美しい顔だちの若者がやってきた。ぼくらは「こんにちは」と挨拶したが、彼は一瞬どぎまぎした様子でこちらを見たかと思うと何も言わずに波打ち際まで行き、それに沿って歩いて、海水に洗われている大きな岩の影に隠れ、しばらくするとその岩の上に立った。

六七分沖のほうをじっと眺めていたが、結局何をするでもなく去って行った。 彼が何をしていたのか、その時はわからなかった。しかしあとでわかった。

実は彼が見ていた方向こそ「幻の大陸、八重干瀬(やびし)」のある海域だったのだ。これは、地元でサニツと呼ばれる毎年旧暦の3月3日(4月中旬)に約2時間だけ海より姿を現す広大な珊瑚礁の群で、その広さは宮古島以上であるという。

近辺の人々はこの日時にフェリーボートなどで大挙して押し寄せ、この束の間の珊瑚大陸に上陸し、逃げ遅れた魚、エビ、タコ、貝類、その他あらゆる海の幸を手掴みで収穫する。まさに海の中から現れる豊作の畑である。

要所要所には百を越える数の地名が付されており、たとえばかつて汽船が座礁した所は蒸気が関と呼ばれ、鯨が淵や、大蛸の江といった具合に名付けられている。

しかし、国土地理院の地図にはこの幻の潜水島はしるされていない。さて、宮古島滞在最後の日に入った理髪店の理容師の話によると、サニツの日だけでなくほとんど毎月大潮の日には規模と時間は縮減されるが、このヤビシは姿を見せているということだった。

してみれば、この池間島の若者はいつも干潮時が近づくとここに来て沖を見て、ヤビシの出現の兆候である白い波が立っているか否かを観察していたのであろう。

その時もし少しでも白いものが見えたら、ぼくらの座っていた小舟をこいで沖に出て、ヤビシに一番乗りをしようという腹づもりであったのだろう。ヤビシは豊かとはいえない池間島の人々にとって神から贈られた宝島である。

今までに海に生きるありとあらゆる種類のものが神からの賜物としてヤビシのまな板の上に載ったことであろう。

ならば賢明なる読者諸氏よ、このうら若き南海の美青年が、幼き頃より、いつか伝説で聞いた美しい人魚がヤビシの岩の上にとり残されることを、そしてそれをわが妻にめとることを願い、海神に祈り続け、その純粋な思いを崇高な信仰心にまで高めた結果、その成就を信じてここに立つのだ、というぼくの推察はあまりにも突飛であろうか?

しかし、またこのヤビシは科学的ロマンをもかき立ててくれる。池間島から橋を架け、このヤビシの上に巨大な海上都市を構築することをぼくは想像してみた。

海中でも腐食しない水中コンクリートが開発されているのでこれを使えば基礎部は心配ない。ベニスのように道はほとんどが水路であってもよいし、建物の高さを一律にして屋上を道路で連絡してもよい。

広大な海中水族館も作れよう。うまくすれば、魚の牧場もできよう。海の釣り堀もあってもいい。サイクリングロードをつくれば、トライアスリートたちは、ヤビシを一周することにより宮古島の同じコースを自転車で二度回らなくてもよくなる。

また、制限時間を2時間とすればこれ以内にヤビシを回れなければロードが水没するとすればスリルも出てくる。発電は太陽光線、風力、波力、および潮の干満を利用する。やがて、ここに空港もでき、巨大な多目的タワーもできる。

しかしこの壮大な科学的ロマンと美しき青年の密かな夢は互いに排他的である。 ぼくらは再び島の沼を目指した。さらに島の人に聞いてなんとか沼にたどり着くことができたが、遠くから湖面を眺めることができる状態で数羽の白い鳥も見られた。

公園の地図に描かれたような木製の湖上遊歩道などはなかった。

誇大広告ならぬ、誇大地図だ。おそらくあの地図はこの島のこれからあるべき姿を描いていたのであろう。しかし、遊歩道など作って沢山の人が来るようになると今度は白い鳥がいなくなることもある。

ぼくらはテントに戻り、ぼくはしばらく浜に出て遊泳した。やがて石塚君もやって来た。岩があればたいてい熱帯魚がいた。しかし、ここは橋の工事の後遺症なのであろう、あまり多くは見つけられなかった。

テントに戻ると川上博士が早くも数本オリオンビールを購入しており、それを冷たく保つためにシャーベット種のアイスキャンディーもたくさん袋に入れていた。

ぼくはこのアイスのほうをたくさんいただいた。やがてぼくは水浴びして着替えると昼寝をすべくテントでアイマスクをして横になった。しかし朝と同じ瞑想を繰り返すばかりでほとんど眠ることができなかった。

外では、新たなアイアンマンが次々にやって来ていた。博士自身サッカーやラグビーを愛するスポーツマンだから、彼らを温かくもてなした。

ついには女性の完走者も来た。この時ばかりはぼくもテントから出て挨拶をした。ある者は、浜に出て泳ぎ、もずくをたくさんかき集めてきた。

これをお土産にするのだという。少し賞味させてもらったが確かにもずくの歯ざわりであった。

ぼくは同じ所を最前泳いだのだったが、もずくなどは味付けされて器に盛られたものしか知らないので海中で見かけてもとんと気がつかない。

トライアスリートたちは、池間島を巡ったのち飛行機の時間を気にしながら次にゆくところを決めると去って行った。「サイクリングがんばって下さい」「来年もトライアスロンがんばって下さい」ぼくは彼らが池間大橋を宮古島のほうに走り去ってゆくのを見ながら寂しい思いを禁じえなかった。

もうぼくもこのへんで旅を切り上げて帰ってもいいような気さえしてきた。 昼過ぎにぼくらは荷造りして池間島を去った。

ぼくの地図に「きれいなビーチ」と紹介されていた東シナ海側のビーチを次の目的地に定めていた。途中、福山というところで石塚助手のチュブラータイヤがパンクし、スプレー式パンク修理具でそれを直した。

その後、遅れを取り戻そうとするかのように川上博士はどんどん南下してゆき、ぼくと石塚助手は次第に遅れ、ついに博士の姿を見失った。

博士はどこかで左折してビーチに下りて行ったのだ。そして、そのビーチがゴミが多くてきれいでなく、ぼくらもなかなか来なかったので、彼は坂道を登って引き返した。しかしその時にはぼくらはもうそこを通り過ぎてしまったあとだった。

彼はまた石塚助手のタイヤがパンクしたのだろうと考え、そこから池間島の方向に引き返し、ついに東シナ海と太平洋への別れ道である南静園の三叉路まで引き返したという。 この頃、ぼくはまるで夢遊病者のようにひたすら走り続けていた。

あまりにも長く博士の姿が現れないので、ぼくは上述の状況を危惧し、引き返そうかと思い自転車を止めて後ろから石塚君の追いつくのを待った。

すると、やはり夢遊病者のように疲れ切った様相で走って来た彼は、そのままぼくを置いて更に進んで行った。

放っておくと彼は東平安名(あがりへんな)岬の突端まで行くかもしれない。彼は2年前の日南海岸で、彼が先をゆく我々を視野に入れているのを見届けて横道に逸れたぼくと川島君を気づかぬうちに真っ直ぐ進み、ぼくらが先にいるものと思い込み、とうとう鹿児島県志布志まで行ってしまった。

そのことを覚えているぼくは、彼を追いかけることにした。しかし、こういう状態のときの、つまり見えないが先にリーダーが走っているものと信じ込んだときの彼の走りはしぶとい。簡単に追いつけるものではない。

石塚君、しかし君は先にいない者を追いかけていたのだ。決して追いつくことのできない者を追いかけていたのだ。

目覚めよ、石塚君。君の慕う博士は君のずっと後方にいたのだ。君のいつも何かを追い求める姿は尊い。導くものを追い、あわよくばそれを追い越すということは若者の正しい姿だ。

しかし若いが故に導くものを見失い、あるいは見誤り、危険な速度とコースをとることもある。君が君を導くものをいつも自分の外に見つけようとするならこの危険はつきまとう。君の中に君のリーダーを育てるのだ。

幻のリーダーを追うのでなく、自分が今リードしていることを自覚するのだ。神の国を指し示す羅針盤は君の中にもある。 ぼくはようやく、石塚君に追いつき、引き返そうと言うと首をひねり怪訝そうな表情で返事をした彼を連れて、来た道を戻った。

目の覚めるような美しい海がこんどは右にきたので、ぼくは何度も首を右に振った。二十分くらいたった時、川上博士がぼくらの方にやって来るのが見えた。

ホッとした。ここで互いの非を論じ合うのは無意味であるばかりか、有害である。地図で「きれいなビーチ」と書かれた目的地としていたビーチをはるかに通り越してしまったぼくらも愚かであったが、後続の姿を確かめないで左折した博士にも非はあった。

しかし再会したときにだれもこれらを口にしなかった。 ぼくらはヒガという村で食購し、きれいでなかった「きれいなビーチ」の隣の与那浜に下り、ここでテントを張った。

水際から10メートルくらい上がったところだ。ぼくは夜半にまた目が覚め、波の音が近づいているので外に出てみると、2メートルくらいの所まで波打ち際が迫っていた。そこでぼくはテントを丸ごと抱えて防波堤の後ろに移動した。

結局、波はそれから先には上がって来なかったので、真夜中の大テント移動は無駄であった。が、移動していなかったなら波の音が気になって、安眠はできなかったろう。このようにものごとをすべて都合よく考えてゆけるなら、残りの人生も愛すべきものとなろう。