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歴史
上布の歴史は約400年前の天正年間(1573〜1592)になる。
しかしその起源については資料はなく、確かなことはわかっていないが断片的に推察される文献といい伝えがある。

由来については天正11年(1583)頃、当時の宮古島の洲鎌与人の職にあった下地真栄という人が沖縄本島からの帰途、逆風に流され中国に漂着。そこへ琉球進貢船が回航してきたのでそれに便乗して島に戻った。

しかしその途中、暴風に巻き込まれ、船の舵にロープが巻き付き、転覆の恐れがあった。それを水練に達者だった下地真栄が荒海に飛び込み、舵のロープを取り除いたという。

その船に同乗していた進貢使は時の王(尚永王)にその勇気と壮挙を伝えたところ王は、その功績を讃え真栄を宮古の間切頭役に取り立てた。


その真栄の妻、稲石(いないし)はいたく感激し、その恩に報いるため工夫をこらして綾錆布(あやさびふ)を織り上げ尚永王に献上した。綾錆布は紺上布で現在の宮古上布の始めと言われている。

市内西里にある貢布座屋敷跡(宮古神社内)には「稲石刀自之碑」が建っており、毎年11月30日に稲石祭りが行われている。


その上布の歴史に影をおとすのが天下の悪法といわれる「人頭税」である。平良市にその人頭税石と言われる石があるが、いまだにその人頭税に使われたか定かではないが、定説として語り次がれている。
その石は別名「賦計り石」とも言う。


琉球王朝時代から施行されていた税制だが、その税制が厳しさをましたのが薩摩藩の琉球侵略(慶長14)1609年だ。
そして寛永14(1637年)より役人を島に派遣し取り立てを厳しくした。以来、約300年の長きわたる悪税は島に施行され、明治36年(1903年)まで続けられ島民を苦しめた。


その悪税は収穫の約90パーセントが税という名目で収奪されていた。宮古上布は女性に課さられた人頭税といってよい。その仕事は厳重な監視のもと、士族の女性は白上布で、3分の2の人が原料の糸づくり、3分の1が織り手になった。平民の女子は紺上布だが、同様に糸づくり、織り手とわかれ、一貫作業でなく、分業生産形態がとられていた。

その作業は自宅でするのではなく「ブーンミャー」と呼ばれた村番所の裏に染屋と織布小屋で行われた。女性たちは監督役人の目を恐れながら、黙々と染め、織っていたと言われる。


その中、織りむらなどが発見されると、織り手はもちろん関係者も処罰され、陰惨な刑罰や女性ゆえの悲しい事件も数多くあったようだ。島の女性の織り手は命がけで織ったがゆえ、いまの宮古上布の美が残されていることも歴史ゆえの悲しさであろうか。

人頭税石と言われいる(市内・荷川取)