★ひららぶらり歴史遊歩道

史跡 漲水御嶽と石垣
古代宮古人の源流を探る上からも貴重。南側石垣は目黒盛の玄孫・
仲宗根豊見親が1500年中山王府の先導で、八重山のオケヤ赤蜂征伐
にさいし、戦勝記念に築造と、忠導氏本家家譜に出ている。
当時の石造技術を知る上でも貴重なもの

。★ 史跡  漲水石畳道
18世紀のはじめ、宮古の治山・土木工事がすすめられていたころ、
改修、新設されたと伝えられている。1696年の大地震のあと
土木工事の一環として、石畳道も二間半に拡張されたものと推定。
旧藩時代の政庁である「蔵元」南側にそって漲水御嶽前から祥雲寺
北東まで続いていた。現在は戦後をえて3分の1を残すのみ。

史跡  ★祥雲寺の石垣
18世紀の初頭、宮古では大規模な土木工事が進められており、
このとき祥雲寺の石垣も築かれたものと推察している。
当時の石造文化を知る上で貴重。

★史跡  盛加が−(洞井)
水道の発達しないころ、当時の人々の生活用水は天水と各地の
うりが−(洞井)。盛加が−は小規模ながら貝塚層もあり、周辺
一帯からは多くの青磁片、土器片も表面採取できるうえからも、
大きな集落があったことを裏付けている。石段は103段もある。


豊見親墓(とぅぃみゃー)
豊見親墓は仲宗根豊見親を始祖とする忠導氏にゆかりのある墓で
宮古島北西の平良港に臨んだ地にある。仲宗根豊見親は15世紀
から16世紀に宮古の首長をつとめた人物。


「知利真豊見親の墓」
その墓の隣にある「知利真豊見親の墓」は仲宗根豊見親の三男である。
この墓も代表的な折衷様式時代の墓。またツンプン跡を残しており、
俗に”ツンプン墓”とも言われている。
アトンマ墓
この墓も仲宗根豊見親墓の南方に位置してある墓で、
忠導氏ゆかりの墓で同氏族の継室(アトンマ)だけを葬ったことから
俗に!アトンマ墓”と言われている。墓の様式は岩盤と切石を組み合わせた
彫り込み囲い墓である。いつの築造か定かでない。


★大和井
戦後水道が普及するまで平良のまちで使われていた井。このうり井
は全般にわたって人工が施されている井で切石など円形に積み上げて
石造技術の粋を傾注したと想定される。
伝承によると、この井は在番役人や頭など、ごく一般の役人が
使用し、庶民には開放されなかったという。門扉を用いたと思われる
カンヌキの跡さえ留めている。堀年は1720年と推定。

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